オーラルサラインの効果は抜群である。JAMPのプロジェクト・マネージャーKK-Rakanは2日間、下痢に苦しんだ。なにも食べる気がしない。医療相談員のアクリマが、やつれたKK-Rakanにオーラルサラインを飲むように勧めた。バングラデシュで、下痢の特効薬としてつくられている。訳すと「経口補塩水」。たかが塩水で、原因不明の下痢が治るものか、と思った。値段をきくと、非常に安い。ためしても損はない。運転手のショロジットに20タカ渡した。オレンジの袋にはいったオーラルサライン10袋を買ってきた。簡単に手に入るのだ。アクリマが「クリーンな容器に、クリーンな水を半リットルいれて、袋を切って粉をまぜ、クリーンなスプーンでかきまぜる」と手ほどきしてくれた。「クリーン」を強調するところが面白かった。
前日、2袋をペットボトルの水でといて飲んだ。今日1月26日は、プロジェクト開始式(Launching Ceremony)のある日だ。目が覚めた。調子がよい。オーラルサラインのおかげである。この季節に特有の霧はでていない。飛行機は予定通りに、ダッカのゲストを運んでくるだろう。
朝8時すぎ、1階のレストラン「Bachelor.com(バチェラー・ドット・コム)」に降りていく。トルンやトゥフィンらスタッフが正装している。オレンジジュースをぐいと飲み、ルティに蜂蜜をつけて食べる。今日は、特性の鶏肉スープがついていた。ロヒマに、鶏肉をゆでて塩をいれるだけでよいと指示した。それだけで、こんなにおいしいスープができた。空も心も晴れ渡った朝だ。
食べ終わったところへ、携帯電話を手にした麻子がはいってきた。
「飛行機が遅れるそうです。9時半出発の予定が11時半に変更になったと、JICAの菅原さんから連絡がありました」
ダッカからのゲストは、バングラデシュ政府の地方自治局(LGD)の次官、デプティセクレタリー(水供給部次長)、公衆衛生工学局(DPHE)のチーフエンジニア(局長)、地下水サークル部長ら計7人。日本側は、大使館の紀谷昌彦参事官、JICAバングラデシュ事務所の新井明男所長、菅原卓也氏ら4人。
次官はチーフゲストとして、式の最後にスピーチをする。水供給部次長は、このプロジェクトのPD(プロジェクト・ディレクター)なので、始まってすぐにプロジェクト概要を報告する。DPHEのチーフエンジニア、紀谷参事官、新井所長はスペシャルゲストとしてスピーチをする。これらゲストなしには、式は成り立たない。
予定だと、式は11時半に始まり、午後1時35分に終わり、それから昼食になるように組んでいる。飛行機がダッカを11時半に出ると、到着は12時10分ごろだ。空港から、会場のある県庁まで15分はかかる。そうすると、早くて12時半着ということか……と数字が頭をかけめぐる。
そこへ、島村がやってきた。関係者と対応を検討することにする。島村、直樹が9時に県庁へ行き、DDLG(地方行政担当の知事補佐)と会う。一方でKK-Rakanは、ダッカにいるプロジェクト・ディレクターのショヒクル氏に電話をかけて打ち合わせることにした。
携帯電話にでたショヒクル氏は、「いま空港に向かう車の中だ。プログラムを短くして、予定どおり午後2時には終わらせよう」と言った。午後3時から、次官やショヒクル氏が出席する「バングラデシュ南西部の水供給に関する会議」が組んであるからだ。
県庁でDDLGと話し合った島村から電話がはいる。予定通り午前11時半に開始。式次第をかえて、ジョソールの参加者のプレゼンテーションを先におこない、ダッカからのゲストのスピーチはあとにまわす、という。
ショヒクル氏に電話し、変更の内容を伝える。「俺のプレゼンテーション(プロジェクト概要)は、プロジェクト・マネージャーにやってもらいたい」という返事である。他人に、重要な出番を譲るプロジェクト・ディレクターもえらいが、突然ふられた30分のプレゼンテーションを直前に引き受けるプロジェクト・マネージャーもえらい。さらにいえば、2人の間にできている信頼関係もすごい。
短時間に、対応が決まった。緊急時に、バングラデシュ関係者はてきぱきと方針を決めていく。ひときわ落ち着きはらっていたのがワゼド知事である。午前10時半、トマトの乗った車が、まちがえて県庁に行かずに知事公舎に行った。トマトが車を降りると、庭にたてた大きな日傘の下で、ワゼド知事はチャを飲んでいた。トマトは「いっしょにチャを飲んでいかないか」と誘われた。「みんなが大騒ぎしているときにチャを飲むなんて」。半分はあきれ、半分は感心した。
飛行機の到着2時間遅れで、式次第をかえて対応する。こんなことは、想定内のできごとなのだ。あわてることはない。
知事室隣の会議場に150人が集まった。予定より10分遅れて、午前11時40分に式は始まった。司会は、県庁職員の女性がつとめた。事前に習った日本語をまじえて進行する。てなれたものだ。バングラデシュでは、中央政府に就職した官僚は、まず地方(県、郡)勤務から出発する。彼女もキャリア組である。
ワゼド知事がWelcome Speechをしているとき、ひな壇に座ったKK-Rakanに、オマル・ファルク副知事が声をかけてきた。
「日本人女性がえらく多いが、ダッカから来たのか」
「いや、みんなジョソールにいる」と答える。
数えてみると、日本人女性は、民子、麻子、純子、トマト、尚子と5人いる。そのうち4人がサリーとサロワカミューズを着ているのだから、目立つはずだ。
(右写真:急遽代理プレゼンテーションをすることになったKKが、会場準備中に急いでメモを作成する)
プレゼンテーションにうつった。チョーガチャ郡のオショク・クマル郡長が「啓発活動と砒素対策委員会の活動」について。公衆衛生工学局ジョソール事務所のサイフル・ラフマン所長が「安全な水供給」について。ジョソール衛生局のアブル・バサル局長が「砒素中毒患者の支援」について。このプロジェクトでどんな活動をするか、説明していく。最後のプレゼンテーションが、ショヒクル氏からプロジェクト・マネージャーのKK-Rakanにまわってきた「プロジェクトの概要」である。KK-Rakanに、他のプレゼンテーションをきく余裕はない。ひたすらメモを作りつづける。
会場係のラジュがKK-Rakanの後ろにきて、飛行機が11時30分にダッカ空港を離陸した、とささやく。プレゼンテーションの始まる前に到着すれば、もちろんショヒクル氏がやることになる。準備は必要なのか、と思いつつも、メモを書きつづける。ラジュが来て「12時10分にジョソール空港に着陸した。あと15分で会場にくるだろう」とささやく。幸いなことに、アブル・バサル局長の話はだらだらして長い。これだと、ショヒクル氏の到着前に終わることはなさそうだ。12時35分になった。局長の話はつづいている。ショヒクル氏はやがて着くはずだ。KK-Rakanはラジュを手で招いた。
「俺は代理のプレゼンテーションはやらない。もし局長の演説がショヒクル氏の到着前に終われば、そのあと休憩をいれよう」と伝えた。ラジュが戻ってきた。副知事が「休憩なしでつづける」と言っている、という。
とっくに到着していいはずなのに、ダッカ組は来ない。空港から県庁の間で事故でもあったのか。けげんな気持ちで、KK-Rakanは、プレゼンテーションに立った。突然の交代だが、パワーポイントのスライドが用意してある。それにそってやればよい。
半分近く進んだ。会議室のドアがあいた。参加者が立ち上がる。先導役のワゼド知事を先頭に、チーフゲストのジャフルル・イスラム次官はじめ、ダッカ組がはいってきた。KK-Rakanのプレゼンテーションは中断した。後ろを通るショヒクル氏に「交代するからな」と小声で伝えた。5章にわかれた「プロジェクトの概要」の3章までおわらせて、ショヒクル氏に替わった。
KK-Rakanには、式の最後の「Vote of Thanks」(お礼の言葉)が割り振られていた。ショヒクル氏のプレゼンテーションが終わり、ダッカから来たゲストのスピーチにうつった。こんどは、持ち場のVote of Thanks の原稿の手直しだ。ひな壇で、ゲストのスピーチを聞きつつ、原稿を直していった。次官のスピーチが終わった。いよいよ出番である。
司会の女性がベンガル語で紹介している。KK-Rakanは、原稿を手に椅子から立った。ラジュとシャミム・ウディンが飛んできて、KK-Rakanを椅子にすわらせた。
「知事が代わって挨拶することになりました。プレゼンテーションをやった人物がVote of Thanksをやるのはおかしいという理由です」
なんだって! こんな突然の変更は考えられない! 俺は、午前1時すぎまで起きて準備し、この席でも、原稿に手を入れた。参加者に配った式次第にも、俺の名前でやることになっているではないか。想定外のできごとで頭が混乱している間に、知事はなめらかなスピーチで、式をしめくくった。会場から拍手がおこる。納得できないまま、みんなに合わせて、ぽんぽんと手をたたいた。
1月24日までの滞在予定を28日まで延ばしたのは、この式を見届けるためだった。式は、多数の参加者とゲストのみごとなスピーチでもりあがった。その意味でほっとした。想定外が起きたことは、今日も楽しみがあったということだ。そう思うとしよう。 
もうひとつ、想定外を追加しておこう。ダッカ組を空港で迎えた麻子から聞いた話である。
KK-Rakanが「来るのが遅い」といらいらしながら、代理のプレゼンテーションをこなしていたとき、ダッカ組はジョソール空港のVIP室でチャを飲んでいたという。定刻から2時間遅れ、式が始まって1時間もたっていたのに……。これは、まったくの想定外というか、日本人の常識外。こんなときに空港のVIP室でチャを勧めたのは、誰か? 思い当たる人物はいる。
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