アンジェラ・ゴメスに会った

 アンジェラ・ゴメスとジョソール県庁の廊下で会おうとは!

 ジョソール滞在中、私は、エアポート道路から少し奥にはいったアパート「ルプ・アナン」の4階の部屋で暮らす。その隣に、女性の自立を支援するNGOバステ・シェカの本部がある。ルプ・アナンが建つまで、バステ・シェカのゲストハウスが、AAN調査団の定宿だった。
1999年、アンジェラ・ゴメスが「マグサイサイ賞」を受けた直後、私は花束をもってお祝いにいった。インタビューして、帰国後、新聞の文化面でアンジェラ・ゴメスの歩んできた道を紹介した。農村の女性が迫害される姿をみかねて、横暴な男たちとの闘いを開始し、貧しい女性が収入を得る道を開いてきた人生……。2000年の洪水のとき、救援活動に寄付してほしいと頼まれて、AANから10万タカ(約20万円)を贈った。ダッカ市内のパン屋でばったり会って驚いたこともある。
 ルプ・アナンの部屋からバステ・シェカを見下ろしながら、いつも気になっていた。泌尿器のがんの治療の経過はよいのだろうか? 元気にしているのだろうか? 隣にいながら、ここ5年くらい会っていない。

 思いがけない出会いがうれしくて、県庁のプロジェクト事務所に案内した。ソファーに座って話をした。顔色は前よりよかった。その代わり、精彩はなかった。治療の副作用で苦しんでいるという。「あの日本人はどうしているのだろうか」と、私を思い出すことがあったらしい。
 アンジェラ・ゴメスは、バステ・シェカで障害のある子ども、障害のある思春期の少女のリハビリを始めた、という話をした。話すことのできなかった少女が、バステ・シェカの庭掃除や出先の店舗の販売をするまで成長した。パソコンを操作するようになった車いすの少女もいる。
 バステ・シェカで新しい建物の建設が進んでいる。1階は、リハビリセンターや彼女らのつくったハンディ・クラフトの並ぶ店舗。2階は、障害のある少女たちの宿舎になるという。障害児の自立支援が、バングラデシュで進んでいることを、私はまったく知らずにいた。ルプ・アナンの足元で、その先駆的な取り組みがおこなわれていたなんて!
 「バングラデシュ・フリーダム・ファウンデーションの助成が終わり、いまは、自主財源でやりくりしている。日本に支援してくれるところはないか」
 そんな相談をもちかけられた。アンジェラ・ゴメスが私のことを思い出すときは、お金に困っているときなのだろう。さっそく、障害者自立支援センターの理事長をしている車いすの友人にメールをだした。海外の障害者をサポートしている財団を調べてくれ、と。
061203 アンジェラ・ゴメスと

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組織検査で、皮膚がんが治った

 11月28日、ダッカの山形ダッカ友好病院でのエクラスル医師が、ジョソールにあるAANバングラデシュの「医療相談室」で、砒素中毒の重症患者の診察をおこなった。定期的におこなっている診察である。今回の受診者は、シャムタ村とマルア村の重症患者ら13人。その中に、JAMPの患者発見調査のとき、チョウガチャ郡で見つかった皮膚がんの女性患者がいた。
 右手のひらに、赤くただれたがんが見つかったのは6月だった。皮膚の組織検査をすることにした。郡病院で皮膚がんの周辺を切って、ジョソールの「ラブスキャン・メディカル・サービス」を通して、ダッカの「パソロジー・サービス」に送った。数日後、検査結果がかえってきた。SCC(Squamous cell carcinoma、扁平上皮癌)と診断されていた。その月のエクラスル先生の定期診察のといみてもらった。
 エクラスル先生は、細胞検査のデータをみて、付き添ってきた夫に伝えた。
 「どこまで広がっているかわからない。その結果では、指も含めて切ることになるかもしれない」
 バングラデシュでは、妻の病気の治療、入院に関する権限は一般に夫がもっている。エクラスル先生は、妻がダッカに来て入院・治療を受けるように説得してくれ、と夫に言った。
 私は、先の派遣期間を8月半ばで終えて帰国した。今回、11月半ばから来年1月半ばまで2カ月の派遣でバングラデシュに来た。彼女のその後が気になっていた。
 彼女は、ダッカの病院には行っていなかった。心配だったので、再度、エクラスル先生の診察を受けてもらった。
 右手のひらは、縫ったあとを残すだけで、傷も痛みもない。正常だ。エクラスル先生は、女性の看護士に患者のわきの下をさぐらせた。リンパの異常もない。治っていた。
 「皮膚の組織検査のとき、がんを全部とってしまったのでしょう。初期に見つかったから、がんはまだ小さかった。幸運です」
 エクラスル先生は、そう言った。KK-Rakanは「おめでとう」と祝福した。女性は、うれしそうに笑った。チョウガチャ郡病院長のサラウディン医師の携帯電話に連絡した。
 「君の技術はすばらしい。組織検査用の皮膚をとっただけで、がんを治した」

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確認されていない患者はまだまだ多い

 午前8時、ジョソール空港に保健家族福祉省保健局(DGHS)のDr.シディクルを迎えた。23日にチョウガチャ郡のヘルスワーカートレーニングとメディカルキャンプの打ち合わせ、24日にヘルスワーカートレーニングをおこなう。それに参加するためのジョソール訪問である。22日は、そうした行事を前に、チョウガチャ郡の患者状況を把握するためのフィールド見学を予定している。
 チョウガチャのプロジェクト事務所で、ペイシャントモニター(看護婦の資格)のフィローザが見つけだした患者のリストを見た。すでに作成されている郡病院の患者リスト(医師が確認した患者)には235人が記載されている。フィローザ作成のリストには152人の名前があって、郡病院リストと重なった患者は黄色の線で消してある。重なった患者を除いても、新たに130人あまりを見つけたことになっている。これまでにフィローザが回った限られた地区だけで、郡の医師が見落としてきた患者が130人もいたということだ。KKは、フィローザは砒素による角化や色素沈着と、他の病気による皮膚症状の区別できていないのではないか、と疑った。
 ナラヤン運転の車にDr.シディクル、KK、ラジュ、フィローザが乗って、患者の見つかっている村を回ることにした。最初に行ったフルスラユニオンフルスラ村で、フィローザが見つけた3人の女性患者が待っていた。2人には軽い色素沈着と角化がみられた。1人については「ボーダーだ」とDr.シディクルが言った。アラッダ村の茶店で、砒素中毒の初期症状の青年を診た。そこへ、隣のシップナゴル村から、軽い症状をもった若い男たちが次々とやってきた。若者に軽度の砒素中毒症状がでていることから、年寄りには、もっと進んだ症度の患者のいることが推測された。フィローザが集めた患者をみて、Dr.シディクルは「彼女は砒素中毒の症状を正確に判断している」と評価した。
 フルスラユニオンからドゥリアニユニオンに向かう途中、薬屋の並んだ通りに車をとめた。フィローザが、数人の患者に集まるように声をかけていた。その中に、足の裏の角化のひどい患者がいた。チョウガチャ郡には、郡病院のリストをはるかに上回る患者がいることは確実になってきた。重症患者が埋もれている可能性も高い。「非常に深刻だ」とDr.シディクルが言った。
 クシチアバオルという三日月湖を渡る土盛りの道路を、ナラヤン運転のプラドは、がたんがたん揺れながらゆっくり進む。車の幅と道幅はほとんど同じだ。Dr.シディクルが「こわくないか」ときく。「ナラヤンが起こした事故で死ぬのなら後悔はない」と、KKが答える。「それは、ナラヤンがゴッドだということだ」。「ドライバーゴッド」とKKが答えて、大笑いになった。
 車の窓から、村人の胸に色素沈着のあるのが見えた。車を止めた。ベリゴピンドプル村のモリクパラである。出会う村人は、子どもをのぞくと、ほとんどみんな皮膚症状をもっている。目が赤いのは結膜炎の症状だ。「横になると咳がでる」と、気管支炎を訴える人もいる。角化のひどい重症患者、初期皮膚がんと思われる症状の患者もいる。フィローザが「このパラに1日来ただけで35人の患者を見つけた。みんな郡病院のリストには載っていない」と言った。隣の西パラには行っていないというので、そのパラでも村人の皮膚を見て回った。患者はいなかった。グアヴァの木の下で、新鮮でみずみずしい実をごちそうになった。モリクパラは、砒素汚染のホットスポットのようである。
 最後の目的地クシチア村で、全身の色素沈着と脱失、手足の角化、足の腫れ(エデマ)、結膜炎の現れた患者を多数みた。見るからに貧しい、やせた男の症状がひどい。栄養状態のよい男にはでていない。代替水源がないので、緑に塗られたチューブウエルの水を飲んでいる、という。信頼性の薄いNGOが、数年前にチェックした結果をいまも信じているのだ。早急に手をうたなければならない。
 「ナオキが来てパラミーティングをおこない、バオルを水源にしたパイプ給水をつくることを要請することにした」と、リーダー格の男が言った。これまで対策をとられてこなかった村が、ジコルガチャ郡との境に近い遠隔の地に残されていた。JAMPは、村の人の期待に応えるべく活動をつづける。

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難しさと頼もしさと~シャシャ郡代替水源見学~

 シャシャ郡には、JICA・AANプロジェクト(2002年―2004年)が設置した代替水源が63基あります。そららが、今回のプロジェクトで建設する代替水源の基本になります。チョウガチャのフィールドワーカー10人と患者モニター1人 が、7月3日、その見学にシャシャ郡を訪れました。
 シャシャ郡のプロジェクト事務所に集合。出発前のミーティングで、プロジェクトマネージャーがこう挨拶しました。
 「1998年に本格的に始まった砒素汚染対策で、全国にたくさんの代替水源がつくられました。すでに多くのものが使われなくなっています。今日は、シャシャ郡の代替水源を見て回りながら、どこに問題があるか、どうすれば解決できるかを考えてほしい。私たちが活動しているシャシャ郡とチョウガチャ郡は、もっとも対策の難しい地域です。ここの問題を解決できれば、全国の問題を解決できます」

_1  ワゴン車3台で出発です。向かう方向に黒雲がたちのぼっています。雨が近づく予感の中、テングラ村の北パラで深井戸サンドフィルターの見学が始まりました。当初、ダグウエルにサンドフィルターをつけていたのですが、ダグウエルの砒素濃度が高かったので、深井戸に替えました。よく見ると、深井戸のポンプの吐き口がフィルターからはずしてあって、砂フィルターは使われていません。激しく雨が降り出したので、民家にはいって、利用者から話をききました。乾季に地下水の水位がさがり、手押しポンプが重たくなったとき、利用者はポンプを押すことはせず、フィルターの水をくむだけになったといいます。すぐにフィルターの水がなくなり、フィルターが用をなさなくなったので、ポンプの口の向きを替え、フィルターなしのふつうの深井戸として使うようになったといいます。「フィルターを通した水の方がおいしい」という村人の言葉に慰められながら、テングラ村をあとにしました。

_2  カリアニ村の道路沿いにムスリム・エイドという団体が掘った深井戸があります。ポンプは赤くさびて、口に含むと、塩の味がしました。このあたりの深井戸は塩分濃度が高いのです。利用者は「おいしい」と言っていましたが、この塩水を毎日飲みつづけて健康に問題はないか心配です。
 カリアニ村のPSFは、池の水が十分にあって利用されていました。ところが、こんな話を聞きました。「土地と池のオーナーが、PSFの水をトイレ掃除に使ったりする。他の利用者がそれに反発して、11人の利用者組合メンバーが1対10に割れている」と。
 同じカリアニ村に「おいしい」と評判で、年間通して利用されているダグウエルサンドフィルターがあります。ふたつの池にはさまれていることが、水量の豊富な理由でしょう。近くにあるチューブウエルの水がすべて涸れた時期、何百(?)世帯も汲みにきたそうです。塩素の滴下がされていて、管理もいきとどいています。うれしいケースでした。

 小学校に設置したダグウエルサンドフィルターは、ポンプや蛇口が持ち去られて、無残な状態でした。小学生にきれいに保つように指導しても、言うことをきかずに、おしっこをする、いたずらをする。集落から離れているので、村の人が利用することもなかったようです。公共施設に設置するのは大切なことですが、子どもたちのしつけや住民による維持管理のことを考えると、あまり勧められないようです。
 参加者は、施設を見学し、利用者の話をききながら、熱心にメモをとっていました。メモをとるバングラデシュ人の姿はきわめて珍しいことです。
_3 <使われていない代替水源・小学校で>

 午後6時をすぎて、シャシャ郡のプロジェクト事務所に戻ってきました。しめくくりのミーティングで、現地見学の感想や意見が次々ととびかいます。最後に、プロジェクトマネージャーがこんな話をして結びました。
 「今日は、みなさんの熱心な姿をみて頼もしく思いました。これだけのスタッフが集まったのだから、このプロジェクトは成功すると確信しました。プロジェクトは、住民が主体で地方行政がそれをサポートするシステムづくりが目的です。みなさんは、システムづくりの後押しをするのが役割です。その難しい課題にむかい、いっしょに力を合わせていきましょう」
 代替水源の維持管理の難しさを痛感するとともに、若くてやる気のあるスタッフに頼もしさを覚えた一日でした。

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エコロジカル浄水法

 ジョソール県シャシャ郡のプトゥカリユニオンに、バオル(三日月湖)の水を砂利槽と砂槽を通して浄水し、300世帯に給水する施設がある。シャシャ郡では、2002年から2004年にかけて、JICA・AANの「移動砒素センタープロジェクト」がおこなわれた。そのとき建設され、バングラデシュに適した浄水技術だとして、政府関係者や科学者や水供給技師らに注目された。その水が、2カ月前から飲めなくなっている。

 この問題を解決するために、中本信忠先生が6月28日から7月1日までジョソールに来てくれた。中本先生は、信州大学繊維学部で藻の研究をしている。その研究が浄水技術につながったのは、この技術が、藻などの水生生物や微生物の働きで、水をきれいにするシステムであるからだ。
 28日と29日、中本先生とプロジェクトスタッフがプトゥカリのパイプ給水施設を訪れた。3つの問題が起きていた。1つは、三日月湖の水が塩辛くなっていること。川の水量が減って、海水が150キロ遡上し、三日月湖に浸入してきたためだ。2つ目は、三日月湖の水位が低下し、水質が悪化したのに、ろ過の機能が対応できず、蛇口からでてくる水に悪臭が残っていること。3つ目は、毎月15タカ(約28円)の利用料金を払わない家庭がどんどん増えてきたこと。これは、水質の悪化が原因している。

Krk060630_023 30日午後4時半から、コルシ小学校の校庭に輪ができた。利用者のミーティングの始まりである。まず、一昨日の大雨で塩分濃度が下がったことが報告された。雨がもっともっと降れば、塩味は消えていくだろう。つづいて村の人たちが、どうやって利用料金を集めるか、議論を始めた。
 <共同水栓(5世帯で1つの蛇口を使う)ごとに責任者を決めて毎月集金する。集まらないときは、責任者が立て替えて払う。料金を払わないときは、共同水栓の蛇口をはずして使えなくする>
 村の人の相談で、そう決まった。

 最後に中本先生が紹介された。<水の流れを速くしたら、悪臭が消えて、おいしく飲めるようになります。そのためには、2つあるろ過装置のうち1つを止めて、今と同じ水量を1つの装置でろ過すれば十分です>と指導した。酸素不足で、砂利槽に硫化水素が発生し、卵の腐った臭いがし始めた。それは、水の流れを速くすることで解決する、というのだ。

Krk060630_030_1  <村人の前でエコロジカルフィルターの説明をする中本先生>
 この装置は、1903年にロンドンのテムズ川の汚れた水を飲める水にするために開発された。水をゆっくりと砂に通す(1日4メートル)ことから「スロー・サンド・フィルター(緩速ろ過)」と呼ばれていた。ところが最近、流速を2.5倍(1日10メートル)にした方が効果的だとわかった。中本先生は、熱帯地方の砂フィルターはロンドンに比べ藻がはるかに茂り、水生生物はずっと多いのだから、流速をもっと速くしたほうがよいと考えている。装置の名前を「スロー・サンド・フィルター」でなく、「エコロジカル・ピュリフィケーション・システム」と替えるように提唱しているのだ。

 プトゥカリからジョソールへ、ナラヤン運転のプラドで帰った。中本先生、KK-Rakan、ミジャーン、シャミム、トルンが同じ車に乗った。こんな話をした。
 「現場で、問題にぶつかってみないと解決策はでてこない」
 「われわれは問題が起こることを歓迎する。問題がわれわれを進歩させるからだ」
 「バングラデシュでは、環境問題がいっぱい起きている。砒素と取り組むことで、環境問題の解決方法を学んでいる」
 砒素汚染の現場から、バングラデシュの明日をになう若手技術者が育っていく。

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ドクタートレーニング2日目

 2日目の医療トレーニングは、シャシャユニオンの会議室でおこなわれました。郡の医師ら7人に、1日目と同様の講義をおこない、午後はシャムタ村で皮膚症状の診断の実習です。
200606181_1 アクタール教授は、シャムタ村に特別の思い出があります。1996年12月、日本からきたアジア砒素ネットワークと応用地質研究会の9人をシャムタ村に案内しました。夕暮れの迫る村で、患者多発地帯を訪ねました。杖をついた青年が、土壁の家の奥からでてきました。肌は黒く、足ははれあがり、横になると咳がでると訴えます。アクタール教授が、 レザウル青年の肝臓をさわると、はれあがっていました。「このままでは数カ月ももたないだろう」と言いました。

<写真 10年前のレザウルとアクタール医師>

 
 それから10年がたちます。この間、アジア砒素ネットワークがシャムタをパイロット村に選んで、砒素汚染調査や飲料水供給や患者救援の活動をおこないました。JICA開発パートナー事業の対象地域にもなりました。300本近くある井戸のうち90%が汚染されていた村に、深井戸やポンド・サンド・フィルターやダグウエル・サンド・フィルターが設置され、安全な水がいきわたるようになりました。
200606182  レザウルがアクタール教授のところにやってきました。キヤという娘を連れています。結婚して、2人の娘の父親になったのです。リキシャバンのドライバーとして働いて、家族を養う収入を得ています。アクタール医師が、10年前にやったようにレザウルの肝臓を触診し、「正常だ。問題ない」と言いました。レザウル青年の回復は、10年つづけてきた活動が着実に成果をあげてきたことを教えています。

<写真 「正常だ。問題ない」>

200606183_1 押川専門家は、2日間のトレーニング実施で、1カ月の派遣期間をしめくくって帰国しました。戻った先は、タイ南部のハジャイにあるソンクラ大学です。

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ドクタートレーニング1日目終了

 6月17日と18日、郡医師を対象にした「砒素中毒患者の健康管理に関するトレーニング」をおこないました。企画したのは、保健担当の押川専門家です。
 17日は、チョーガチャ郡の保健施設(ヘルス・コンプレクス)で、政府機関やNGOの医師など7人と、プロジェクト関係者6人が講義を受けました。講義の内容は、保健省保健局(DGHS)砒素担当シディクル・ラフマン氏による「砒素概論」、予防社会医学研究所(NIPSOM)のアクタール教授による「砒 素中毒患者の確認と健康管理」、ジョソール県のアブル・バシャル保健局長による「健康調査継続のシステム」などです。アクタール教授とラフマン氏は、バングラデシュの砒素中毒に関する第1人者。「ビッグ2」を講師として呼ぶことができたのも、これまでの活動の蓄積があればこそ……。

200606171<DGHSのラフマン氏による講義>

 4時間あまりの講義のあと、マルア村を訪れて、患者の皮膚症状の見分け方と記録の仕方の実習をおこないました。
 近くのプルシュラ村から来た女性は、右手のひら中央の皮膚が破れて、赤い身がむきだしになっています。3年前からでた症状だといいます。皮膚がんが疑われます。関係者で協議して、早急に皮膚の生検を実施することにしました。検査の結果をみて、どのように治療を進めるか検討します。政府プロジェクトは、患者個人への治療援助をおこないません。NGOであるアジア砒素ネットワークが、これまでの経験をいかして治療に協力することになるでしょう。

200606172 <フィールドでの患者確認トレーニング>

 肺結核の疑いがある患者が5人見つかりました。至急、呼吸器専門の病院で、その確認をおこなって対策を考えます。日本の砒素公害のむら土呂久でも、肺結核を疑われた患者が多くでました。砒素は呼吸器を冒します。結核菌に感染しやすくなるのでしょう。土呂久では「菌のみつからなかった結核患者」がいたと聞きました。似たような呼吸器症状を「結核」と診断していたとも考えられます。
 マルア村でも、土呂久と同じような状況が起きています。保健面での対策も急がねばなりません。

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想定内で進んだセレモニーの幕切れ……

 オーラルサラインの効果は抜群である。JAMPのプロジェクト・マネージャーKK-Rakan2日間、下痢に苦しんだ。なにも食べる気がしない。医療相談員のアクリマが、やつれたKK-Rakanにオーラルサラインを飲むように勧めた。バングラデシュで、下痢の特効薬としてつくられている。訳すと「経口補塩水」。たかが塩水で、原因不明の下痢が治るものか、と思った。値段をきくと、非常に安い。ためしても損はない。運転手のショロジットに20タカ渡した。オレンジの袋にはいったオーラルサライン10袋を買ってきた。簡単に手に入るのだ。アクリマが「クリーンな容器に、クリーンな水を半リットルいれて、袋を切って粉をまぜ、クリーンなスプーンでかきまぜる」と手ほどきしてくれた。「クリーン」を強調するところが面白かった。

 前日、2袋をペットボトルの水でといて飲んだ。今日126日は、プロジェクト開始式(Launching Ceremony)のある日だ。目が覚めた。調子がよい。オーラルサラインのおかげである。この季節に特有の霧はでていない。飛行機は予定通りに、ダッカのゲストを運んでくるだろう。

 朝8時すぎ、1階のレストラン「Bachelor.com(バチェラー・ドット・コム)」に降りていく。トルンやトゥフィンらスタッフが正装している。オレンジジュースをぐいと飲み、ルティに蜂蜜をつけて食べる。今日は、特性の鶏肉スープがついていた。ロヒマに、鶏肉をゆでて塩をいれるだけでよいと指示した。それだけで、こんなにおいしいスープができた。空も心も晴れ渡った朝だ。

食べ終わったところへ、携帯電話を手にした麻子がはいってきた。

「飛行機が遅れるそうです。9時半出発の予定が11時半に変更になったと、JICAの菅原さんから連絡がありました」

 ダッカからのゲストは、バングラデシュ政府の地方自治局(LGD)の次官、デプティセクレタリー(水供給部次長)、公衆衛生工学局(DPHE)のチーフエンジニア(局長)、地下水サークル部長ら計7人。日本側は、大使館の紀谷昌彦参事官、JICAバングラデシュ事務所の新井明男所長、菅原卓也氏ら4人。

次官はチーフゲストとして、式の最後にスピーチをする。水供給部次長は、このプロジェクトのPD(プロジェクト・ディレクター)なので、始まってすぐにプロジェクト概要を報告する。DPHEのチーフエンジニア、紀谷参事官、新井所長はスペシャルゲストとしてスピーチをする。これらゲストなしには、式は成り立たない。

予定だと、式は11時半に始まり、午後135分に終わり、それから昼食になるように組んでいる。飛行機がダッカを11時半に出ると、到着は1210分ごろだ。空港から、会場のある県庁まで15分はかかる。そうすると、早くて12時半着ということか……と数字が頭をかけめぐる。

そこへ、島村がやってきた。関係者と対応を検討することにする。島村、直樹が9時に県庁へ行き、DDLG(地方行政担当の知事補佐)と会う。一方でKK-Rakanは、ダッカにいるプロジェクト・ディレクターのショヒクル氏に電話をかけて打ち合わせることにした。

携帯電話にでたショヒクル氏は、「いま空港に向かう車の中だ。プログラムを短くして、予定どおり午後2時には終わらせよう」と言った。午後3時から、次官やショヒクル氏が出席する「バングラデシュ南西部の水供給に関する会議」が組んであるからだ。

県庁でDDLGと話し合った島村から電話がはいる。予定通り午前11時半に開始。式次第をかえて、ジョソールの参加者のプレゼンテーションを先におこない、ダッカからのゲストのスピーチはあとにまわす、という。

ショヒクル氏に電話し、変更の内容を伝える。「俺のプレゼンテーション(プロジェクト概要)は、プロジェクト・マネージャーにやってもらいたい」という返事である。他人に、重要な出番を譲るプロジェクト・ディレクターもえらいが、突然ふられた30分のプレゼンテーションを直前に引き受けるプロジェクト・マネージャーもえらい。さらにいえば、2人の間にできている信頼関係もすごい。

短時間に、対応が決まった。緊急時に、バングラデシュ関係者はてきぱきと方針を決めていく。ひときわ落ち着きはらっていたのがワゼド知事である。午前10時半、トマトの乗った車が、まちがえて県庁に行かずに知事公舎に行った。トマトが車を降りると、庭にたてた大きな日傘の下で、ワゼド知事はチャを飲んでいた。トマトは「いっしょにチャを飲んでいかないか」と誘われた。「みんなが大騒ぎしているときにチャを飲むなんて」。半分はあきれ、半分は感心した。

飛行機の到着2時間遅れで、式次第をかえて対応する。こんなことは、想定内のできごとなのだ。あわてることはない。

知事室隣の会議場に150人が集まった。予定より10分遅れて、午前1140分に式は始まった。司会は、県庁職員の女性がつとめた。事前に習った日本語をまじえて進行する。てなれたものだ。バングラデシュでは、中央政府に就職した官僚は、まず地方(県、郡)勤務から出発する。彼女もキャリア組である。

ワゼド知事がWelcome Speechをしているとき、ひな壇に座ったKK-Rakanに、オマル・ファルク副知事が声をかけてきた。

「日本人女性がえらく多いが、ダッカから来たのか」

「いや、みんなジョソールにいる」と答える。

数えてみると、日本人女性は、民子、麻子、純子、トマト、尚子と5人いる。そのうち4人がサリーとサロワカミューズを着ているのだから、目立つはずだ。

26_jan20061(右写真:急遽代理プレゼンテーションをすることになったKKが、会場準備中に急いでメモを作成する)

プレゼンテーションにうつった。チョーガチャ郡のオショク・クマル郡長が「啓発活動と砒素対策委員会の活動」について。公衆衛生工学局ジョソール事務所のサイフル・ラフマン所長が「安全な水供給」について。ジョソール衛生局のアブル・バサル局長が「砒素中毒患者の支援」について。このプロジェクトでどんな活動をするか、説明していく。最後のプレゼンテーションが、ショヒクル氏からプロジェクト・マネージャーのKK-Rakanにまわってきた「プロジェクトの概要」である。KK-Rakanに、他のプレゼンテーションをきく余裕はない。ひたすらメモを作りつづける。

会場係のラジュがKK-Rakanの後ろにきて、飛行機が1130分にダッカ空港を離陸した、とささやく。プレゼンテーションの始まる前に到着すれば、もちろんショヒクル氏がやることになる。準備は必要なのか、と思いつつも、メモを書きつづける。ラジュが来て「1210分にジョソール空港に着陸した。あと15分で会場にくるだろう」とささやく。幸いなことに、アブル・バサル局長の話はだらだらして長い。これだと、ショヒクル氏の到着前に終わることはなさそうだ。1235分になった。局長の話はつづいている。ショヒクル氏はやがて着くはずだ。KK-Rakanはラジュを手で招いた。

「俺は代理のプレゼンテーションはやらない。もし局長の演説がショヒクル氏の到着前に終われば、そのあと休憩をいれよう」と伝えた。ラジュが戻ってきた。副知事が「休憩なしでつづける」と言っている、という。

とっくに到着していいはずなのに、ダッカ組は来ない。空港から県庁の間で事故でもあったのか。けげんな気持ちで、KK-Rakanは、プレゼンテーションに立った。突然の交代だが、パワーポイントのスライドが用意してある。それにそってやればよい。

半分近く進んだ。会議室のドアがあいた。参加者が立ち上がる。先導役のワゼド知事を先頭に、チーフゲストのジャフルル・イスラム次官はじめ、ダッカ組がはいってきた。KK-Rakanのプレゼンテーションは中断した。後ろを通るショヒクル氏に「交代するからな」と小声で伝えた。5章にわかれた「プロジェクトの概要」の3章までおわらせて、ショヒクル氏に替わった。

26_jan20062

KK-Rakanには、式の最後の「Vote of Thanks」(お礼の言葉)が割り振られていた。ショヒクル氏のプレゼンテーションが終わり、ダッカから来たゲストのスピーチにうつった。こんどは、持ち場のVote of Thanks の原稿の手直しだ。ひな壇で、ゲストのスピーチを聞きつつ、原稿を直していった。次官のスピーチが終わった。いよいよ出番である。

司会の女性がベンガル語で紹介している。KK-Rakanは、原稿を手に椅子から立った。ラジュとシャミム・ウディンが飛んできて、KK-Rakanを椅子にすわらせた。

「知事が代わって挨拶することになりました。プレゼンテーションをやった人物がVote of Thanksをやるのはおかしいという理由です」

なんだって! こんな突然の変更は考えられない! 俺は、午前1時すぎまで起きて準備し、この席でも、原稿に手を入れた。参加者に配った式次第にも、俺の名前でやることになっているではないか。想定外のできごとで頭が混乱している間に、知事はなめらかなスピーチで、式をしめくくった。会場から拍手がおこる。納得できないまま、みんなに合わせて、ぽんぽんと手をたたいた。

124日までの滞在予定を28日まで延ばしたのは、この式を見届けるためだった。式は、多数の参加者とゲストのみごとなスピーチでもりあがった。その意味でほっとした。想定外が起きたことは、今日も楽しみがあったということだ。そう思うとしよう。 26_jan20063

もうひとつ、想定外を追加しておこう。ダッカ組を空港で迎えた麻子から聞いた話である。

KK-Rakanが「来るのが遅い」といらいらしながら、代理のプレゼンテーションをこなしていたとき、ダッカ組はジョソール空港のVIP室でチャを飲んでいたという。定刻から2時間遅れ、式が始まって1時間もたっていたのに……。これは、まったくの想定外というか、日本人の常識外。こんなときに空港のVIP室でチャを勧めたのは、誰か? 思い当たる人物はいる。

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砒素による発がんの怖さを証明する一家の運命

 イード休暇最後の日である。それでもJAMPは働く。KK-Rakanと純子は、ショロジット運転のワゴン車でマルア村に行った。チョーガチャ郡で、多くの重症砒素中毒患者のでている村である。アジア砒素ネットワーク(AAN)が5年前から、シャムタ村につづくモデル村として、砒素汚染の調査と対策を進めてきた。

バザールの入口のチャドカン(茶店)で、マルア村砒素対策委員会のラジャック委員長がチャを飲んでいた。2日後の月曜日が娘の結婚式だという。明日、ガイホールという儀式をおこなう。結婚式の前日、花嫁は顔などにターマリックを塗って体を清める。そんな話をしていると、ミジャヌール・ラフマン(40歳)がやってきた。体中に黒い色素沈着がある。厚くもりあがっている箇所は、ボーエン病(前がん症状)だ。

4人の兄弟と、他村に嫁いだ3人の姉妹がいた。4人の兄弟は近くに住んで、同じチューブウエル(手押しポンプ井戸)の水を飲んだ。そして、全員、砒素中毒にかかった。長兄のアルタフ・ホセインは、2年前に52歳で死んだ。皮膚がんの手術を受けたあとだった。2番目の兄アブドゥル・アジズ(48歳)は、肺がんが見つかり、ダッカの病院で化学療法を受けている。治療の1周目を終えて、いま村に帰ってきている。3番目のミジャヌールには、前がん症状と呼ばれるボーエン病がある。末弟のユスフは昨年、肺がんで死んだ。がん多発の元凶が、共同で利用したチューブウエルであることに間違いない。その井戸は、今はこわしてしまってない。

14_jan20061バザールでミジャヌールと話していると、一時退院中のアブドゥル・アジズが、マイメンシンの農業大学生の息子とやってきた。アブドゥル・アジズは、地方政府で働いている人物で、鋭い目をしている。杖をついていても、弱ったそぶりはみせない。

「ダッカの病院で化学療法を受けている。すでに11万タカ(約20万円)払った。明日からダッカに行って、2回目の化学療法を受ける。お金がつづかない。援助してほしい」と訴えた。

バザールの東の広場に、2001年にAANが掘削した深井戸がある。深層地下水は砒素を含んでいないと考えられている。砒素のない水を求めて掘りすすめたところ、140メートルのところで小石の層にぶつかった。バングラデシュの掘削法では、それ以上掘っていくのは無理だった。手押しポンプを設置し、セメントのプラットホームをつくり、飲用できるようにした。最初は、基準以下の安全な水がとれた。数カ月後、砒素濃度が基準の4倍にあがった。それ以降、高いときには0.3mg/lまでなって、安心して提供できなくなった。20056月、AANは、砒素除去のための砂利と砂のフィルターをつくった。地下水に含まれている不純物が除かれて、「おいしい」と評判がよく、多くの人が水汲みにくる。

マルア村には、砒素対策委員会のほかに、5人の青年でつくったヤングコミティがある。宮崎大学や九州大学や応地研の調査活動のサポートをしている。そのうちの4人が現われた。フィールドキットで、砒素濃度を測定してもらった。フィルターに入る前の水は、砒素濃度が0.3mg/l、基準の6倍だったのに、フィルターを通って蛇口からでてくる水は、0.01mg/l以下。ほとんど砒素を含んでいなかった。砂利と砂のフィルターが、十分に機能している。安心だ。

深井戸から、東へ100メートルのところに、故アルタフ・ホセインの家がある。妻のロケヤ・ベグムの右手は半分しかない。皮膚がんを手術したとき、小指と薬指を切除したのだ。夫は、皮膚がん手術を受けて、そのあと死んだ。夫の弟2人は肺がんにかかり、1人は死亡し、1人は化学療法を受けている。砒素はがんを引き起こす。その怖さを、この一家の運命が象徴している。アルタフ・ホセインの家の庭に、兄弟が共同利用した井戸をこわしたあとに掘った、新しいチューブウエルがある。その水から、1.0mg/l前後の砒素が検出される。基準値(0.05mgl)の20倍である。

ロケヤが口の中をあけてみせる。腫れものができたり消えたりする。不安だから、ダッカの病院で検査を受けたい、という。夫が死んだあと収入がない。ニワトリを10羽飼っているが、自分のうちで卵を食べたり、肉を食べたりするだけだ。教師をしている娘夫婦の援助で、細々と暮らしている。治療費はない。症状は悪くなるばかりだ。AANに援助してほしい、と懇願する。

これは、ロケヤだけの問題ではない。夫をなくした砒素中毒患者の女性が、どうやって暮らしていくか、深刻な問題だ。昨年4月、シャムタ村で死んだシャヒダも、食べるものがなく、栄養が足らず、呼吸器の症状が回復せず、3人の子どもを残して死んだ。

生活費を援助することは、なんの解決にもならない。解決策は、村の女性が収入の道を切り開くことだ。純子は、シャムタ村の砒素中毒患者に牛やヤギを貸して、その収入を家計の足しにしてきた経験がある。ロケヤに「ヤギを飼わないか」と勧めた。貸した雌ヤギがこどもを産めば、半数を貸主に返し、半数を自分のものにする。ロケヤは「やりたい」と答えた。「ミシン仕事もやりたい」と言った。

14_jan20062 バシ・ロンネサが、2つのアルミのコルシ(壷)をかかえて現われた。郡の動物病院でニワトリにワクチンをうつ仕事をしている女性だ。ロケヤに頼まれて、毎日2回、川のそばの泉に水汲みに行っている。ロケヤは、家族みんな砒素中毒にかかり、次から次にがんにかかっていくことで、飲料水には細心の注意を払っている。深井戸ができたとき、喜んでその水を飲んだ。砒素濃度がだんだん高くなっているときいて、深井戸をやめた。AANが、ダグウエル(つるべ井戸)に砂フィルターをつけた装置をつくると、その水を飲むようにした。乾季になると、その水が涸れた。九州大学大学院の谷先生が、雨水貯水装置を設置してくれた。雨季には、その水を飲む。乾季になって、1カ月もすると、ためていた水がなくなる。500メートルほど離れたところに、小さな川がある。その近くに、湧き出す水がある。砒素をふくまない伏流水だ。この水を沸かして飲むことにしている。水をいれたコルシの重さは15-20キロになる。それを2つ運ぶのは重労働だ。病弱なロケヤにはできない。月100タカ渡して、バシ・ロンネサに運搬を頼んだ。

14_jan20063 住宅地をぬけて、田んぼのあぜ道を行く。堤防が見える。その手前、あぜ道の下にホテイアオイの浮いた水たまりがある。ロンネサがホテイアオイをおしのけると、澄み切ったわき水が現われた。おそらく川の水がわきだす泉だろう。足を水につけながら、ロンネサはコルシにぐいっと汲んで引き揚げて、腰にのせた。ひとつを右腰、ひとつを左手にもって、ロンネサは歩きだした。両方で40キロ近くなる。重たいから、早足である。純子が手伝うことにした。ひとつのコルシを受け取ってがっちりした腰にのせた。さまにならない。きっと、水運びのこつがあるんだ。KK-Rakanも、ためしにやってみたが、腰骨がでていないせいか、ずるずると落ちそうで、かっこう悪かった。

ロケヤの家のすぐ南に、モスクがある。4人の兄弟が飲んでいた井戸は、モスクのそばにあった。広場で、牛を放して飼っているヒンドゥーの女性に会った。子どもを産ませて、育てて売るらしい。そこに、ハヒスール・ラフマンという男がやってきた。「俺の家に来い」と誘う。ついていくと、門構えの大きな家にはいった。ケジュルという甘い樹液でつくった砂糖を食べさせてくれた。コップについだ水がでた。飲んでみた。臭みのない水だ。

「なんの水を飲んでいるのか」ときいた。「ダグウエルの水だ」と答えた。「チューブウエルの水を飲みなれていたので、変えるときは抵抗があった。しかし、チューブウエルは危険だから、もう飲むのはやめた」と言った。

14_jan20064 ハヒスール一家は、300メートルほどはなれたところにあるダグウエル・サンドフィルターの水を飲んでいた。2年前にAANが設置した。マルア村の南に位置し、近くに池があって、ダグウエルの水量も水質も申し分ない。「誰が、水を汲みに行くのか」ときくと、ハヒスールは「俺だ」といって、自転車を持ってきた。ハヒスールは、自転車にのっていき、何本ものペットボトルに水をつめ、それを布の袋にいれて、ハンドルにつるして運んでいる、と説明した。水汲みは、通常、女性の仕事である。そうした分業に、変化が起きはじめている。

JAMPは、シャシャ郡とチョーガチャ郡の2つの郡を対象としている。2郡とも、簡単に安全な水が見つかりそうにない、難しい郡である。それだけに、チャレンジする価値がある。AANがマルアで実施してきた5年間の経験は、ダグウエルにサンドフィルターを付設する方法、深井戸にサンドフィルターを付設する方法、雨季の雨水利用が有効だと教えている。有力な手がかりである。

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レールのない道を強引に引っ張った時期を終えた

 1月7日に中村純子、8日に島村雅英、11日に石山民子がバングラデシュに到着し、ジョソールに集結した。これで、JAMPに参加する日本人主要専門家7人(直樹、トマト、純子、麻子、民子、島村、KK-Rakan)がそろった。13日午前10時、ルプアナン3階のプロジェクト事務所で、最初のミーティングを開いた。遅れて顔をだした直樹が「病気にかからない人間なのに、3日も寝こむなんて、やばい病気にかかったのではないかと心配したけど、もう大丈夫、治ったようです」と言った。13_jan20061

 直樹は、名古屋大学の大学院生である。2001年に指導教官といっしょにダッカのアジア砒素ネットワーク(AAN)事務所を訪ねた。それがきかっけで、2002年から2003年にかけてインターンとしてマルア村に泊り込み、村の暮らしを体験することになった。2004年には、JICA / AANシャシャ郡プロジェクトのITセンター担当として働いた。地方行政関係者と顔見知りになった。今回のプロジェクトでは、地方行政に持続的な砒素対策制度を築くという難題にいどむ。

13_jan20062  「トマト」と呼ばれだした間藤は、技術士会の集まりで知りあった人に、島村を紹介された。応用地質研究会(応地研)の会合に誘われて、池袋にある事務所に顔をだした。1週間後にバングラデシュに調査にいくときいて、面白そうだと参加した。中学生だった三好万季さんが和歌山カレー事件を追跡した著書「四人はなぜ死んだのか」(文芸春秋社、1999年)を読んでいた。その中に、AANに触れたところがあった。AANの名前が記憶に残っていた。2年後、勤めていた会社をやめて、調整員兼水質管理の専門家としてJAMPに参加することにした。

13_jan20063 純子は、青年海外協力隊員としてメヘルプール県のヤギ農場で働いたことがある。村の女性に、農場で育てた雌ヤギを預ける。ヤギが子どもを産むと、村の女性は半数を自分のものにし、半数をプロジェクトに返す。そんな活動を2年間して帰国、パートをして働きながら、またバングラデシュに行きたいと願っていた。東京のNGOが、バングラデシュの「ヤギと砒素」をテーマにした集会を開いたとき、ヤギ飼育の報告者として招かれた。その会場で、宮崎大学の横田漠教授(AAN副代表)と会って、AANで働かせてほしいと申し出た。2003年から2004年にかけて、シャシャ郡プロジェクトに加わって「啓発・住民参加促進」の仕事をした。JAMPでも同じ役割を受け持つ。

13_jan20064  民子は、1971326日に生まれた。バングラデシュ独立の日は1971327日。「日本とバングラデシュの間の時差を計算すると、私はバングラデシュ独立の日に生まれたことになる」と言う。バングラデシュが大好きで、居住歴は5年以上、バングラのあらゆる面に通じていて、旅行人ウルトラガイド「バングラデシュ」には、民子の執筆したところがかなりある。バングラデシュに関する総合雑誌「遡河」の編集もしている。家が埼玉県にあることから、AANの都市圏の活動をとりまとめてきた。JAMPでは、間藤とともに調整員をつとめる。娘の「まりん」を両親に預けて、バングラデシュに来た。

13_jan20065 麻子は、京都大学大学院に席を置く主婦である。大学卒業後、建設 コンサルタント会社に勤務した。応地研のメンバーになり、休暇を使って、バングラデシュの地下水砒素汚染メカニズム解明の調査に足をはこんだ。会社をやめて結婚し、京都大学大学院に席をおいた。シャムタ村とマルア村に通ううちに、2004年にAANジョソール事務所長となり、シャシャ郡プロジェクトをとりまとめた。JAMPは、民子と麻子が中心になって、細かいプランをたてた。予算は主に民子、活動計画は麻子がになった。麻子は、プロジェクトの代替水源建設を担当する。

13_jan20066  島村とバングラデシュ砒素汚染のつながりは、199612月に始まった。AANと応用地質研究会(応地研)が実施した予備調査のメンバーの1人なのだ。それ以来、シャムタ村とマルア村における水文地質調査に関わってきた。JAMPが始まることになり、横浜市役所をやめて「副総括(Sub Project Manager)」として参加した。

13_jan20067  KK-Rakan35年以上、砒素と関わってきた経歴をもつ。昨年11月、岩波ジュニア新書で「アジアに共に歩む人がいるーヒ素汚染にいどむー」を出版した。そこに、どうしてバングラデシュの砒素汚染と取り組むようになったか書いている。

 この7人が、ジョソールで勢ぞろいした。初のミーティングで、4カ所の事務所開設に向けた動き、資機材購入の状況、スタッフ雇用にむけた動き、126日に決まった開始式(Launching Ceremony)の内容、今月中に準備するガイドラインのことが話し合った。

 イード明けに始まる本格活動の態勢がととのった。レールのない道を強引に走ってきた時期から、見えてきたレールの上を進んでいく時期への転換点、それがこのイード休暇(10日~14日)になっているように思う。

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知事のもつ骨董の蓄音器から音がでた

111日、ルプアナンの白壁の塀に、黒いカラスが2羽とまっている。11Jan2006-0ブーゲンビリアの花に飾られた門扉にも1羽いる。賢いやつらだ。1週間前から、バングラデシュ中を、荷台に牛をつみこんだトラックが走りだした。ルプアナンの車庫の前に、大家が3万5千タカで買った、りっぱなこぶ牛がつながれた。ダッカだと、4万タカから4万5千タカはするという。前日、中村純子が近づいて頭をなでてやると、おとなしくしていた。東海大学農学部畜産学科出身の純子は、どんな動物とでも仲良くなり、どんなに仲良くなった動物でも、平気で食べるからすごい。こうした様子を観察しながら、カラスは、今日がイードであるのを察知しているのだ。イードには、牛やヤギの肉のおこぼれにありつけることをよく知っている。

 KK-Rakanは、ルプアナンの門を出て、右に曲がり、バザールの方へ歩いた。ここ2年くらいの間に、道路わきの店舗はみな改築して新しくなった。中産階層が増えてきたことを示している。イードの日に開いているのは、薬店とミスティー(甘い菓子)屋くらいで、あとはみんな閉まっている。バザールの広場でおこなわれたお祈りが終わったところで、白い帽子に白いパンジャビの男たちがぞくぞくと帰路につく。南北につづく線路伝いに、人びとの列ができている。空軍基地の入口で左に折れて、空港につづく道を散歩した。<キーチュ、キーチュ>と小鳥のさえずりが聞こえてくる。静かな祈りの朝である。

 先月21日にバングラデシュに着いて以来、初めてのんびりできる日を迎えた。これまでの20日間に、プロジェクトの活動開始に向けて突っ走った。必要な資機材の購入、日本からジョソールの銀行へ送金するルートづくり、JICAから3台の車(ジープ、ピックアップ、ワゴン車)を受け取り、4カ所の事務所開設の準備を進めた。スタッフ雇用の広告を新聞にだした。そして18日に、地方自治局(LGD)の会議室で、第1関門のプロジェクト・ステアリング・コミティ(運営委員会)を開き、政府関係者からプロジェクトの内容と2006年の活動計画を承認してもらった。レールのない荒野をかける蒸気機関車のような高橋麻子、緻密に会計の基礎を築いてきたトマト(間藤ゆき枝につけられたニックネーム)、地方行政官と交渉しながら活動の足場を固めた松村直樹、それを支えたAANバングラデシュのスタッフの力によるものだ。もし、運転手のナラヤンとリトンがいなければ、会計のモノアールがいなければ、総務のトルンがいなければ、渉外のラジュがいなければ、ダッカ事務所で資機材購入を手伝ったサニーがいなければ、たった20日間で、ここまでの準備を進めることはできなかっただろう。

11Jan2006-1 先が見えてきて一息ついて安心したことと、寒さに襲われたことが原因したのだろう。一昨日、直樹が熱をだして休んだ。昨日は、麻子が何も食べることができないといって休んだ。その2人が、イードの日の午後、元気な姿をみせた。知事公邸に、ダワット(お呼ばれ)に行くことになっていたからだ。

午後2時すぎ、ルプアナンの玄関で、支度のできた男3人が待っていると、麻子、純子、トマトがサリーを着て現われた。日本でいえば、正月の着物姿である。ひときわあでやかな姿に、ルプアナンの前庭が輝いた。

知事公邸は、招待客であふれているのかと思っていたところ、そうではなかった。同じ時間に呼ばれていたのは、ジョソールのビジネスマン協会の幹部で報道協会の事務局長をしている人物、空軍基地の高官とパイロットだった。やわらかい牛肉、鶏、野菜のカレー、サラダにポラオ(甘いにおいの11Jan2006-2ご飯)。辛くなくて、日本人に食べやすい味付けの料理だった。食後に、知事夫人手製のかぼちゃ・パパイヤ・うりでつくった珍しいミスティーもでた。客間に、大きなラッパのついた古い「蓄音機」が置いてあった。ワゼド知事が、ジョソールで手に入れたものだという。知事は、ハンドルをぐるぐると回し、すりきれたシングルレコード板が動くようになると、傾いていた針をレコード板の上にのせた。キーキーいう音を鳴り出した。ミュージックとはとても呼べないが、何十年も前の蓄音機から、音が聞こえたことに感動した。骨董に興味をもつ面白い知事である。

間藤ゆき枝を「トマト」と呼んだのは、ワゼド知事である。運営委員会の前日、麻子、間藤の乗ったプラドに同乗し、ダッカに行った。そのとき、ニックネームをつけた。「間藤(マト)」の頭に「ト」をつけた方が覚えやすいからだろう。

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歴史ある県庁舎を見上げて熱いものがこみあげた

 昨日から、イード休暇にはいった。それなのに、DDLG(地方行政省派遣の知事補佐)のラフィクル・イスラム氏が、県庁で働いているので、プロジェクト開始式の打ち合わせをしようという。KK-Rakan、島村、麻子、純子が県庁の部屋を訪ねると、ラフィクル氏はベンガル語の書類に次々とサインをしていた。犯罪者を刑務所に送るときに必要な書類なのだが、印刷された箇所のほかは何も記入されていない。空欄の書類にサインして、あとから人名や罪名がいれられ、裁判所の決定を支持する書類になるらしい。承服しがたい気がした。

10_jan20062   ラフィクル氏との打ち合わせを終えて、県庁の玄関前に立った。デジタルカメラで記念写真を撮った。県庁舎の北西の角にあるプロジェクト用の部屋を見上げた。ワゼド知事が用意してくれた静かな部屋である。ジョソール県庁は、イギリス植民地時代の1885年に建設された赤レンガの由緒ある建物だ。各国語で発行されているバングラデシュのガイドブックに、きまって写真つきで紹介されている、西欧風の様式をそなえた美しい建造物だ。県庁舎を背景に写真を撮ったとき、不意にこみあげてくるものがあった。

  1997年3月、宮崎大学の横田漠先生率いるチームがシャムタ村調査に入る前、NIPSOMのアクタール医師とハディ医師に案内されて、県知事の部屋を訪ねた。その後、ジョソールの町を車で走るたびに、赤レンガの歴史的な建物の美しさに魅了されてきた。その県庁舎を働き場にしようなどと思ってもみなかったし、そうなったことに特別な感慨をもつこともなかったのに……、なぜか、胸の底から熱いものがこみあげてきたのである。イード明けに、プロジェクトの本部が県庁内に開かれて、いよいよ本格的に始動する。そのことが実感した喜びだったのかもしれない。

10_jan20061

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携帯電話による通信革命を経験した

 111日はコルバニイード(犠牲祭)だ。バングラデシュ全土で、300万頭の牛、1000万頭のヤギの血が流れる。牛とヤギの売買で、900億タカ(1タカ=約1.8円)の金が動く。さばかれた肉は3つに分けられ、3分の1は家族、3分の1は親戚や隣人、3分の1は貧しい人に配られる。11日をはさむ3日間がイード休暇である。そのあと金曜日と土曜日がくるので、10日から14日まで休みがつづく。人びとは故郷に帰って親族と過ごす。イードによる大移動が始まる。19日の午後から、大渋滞が予想される。午前中にダッカを離れて、早くジョソールに帰らねば……。

午前中、JICA事務所に行って、銀行の小切手帳を受け取った。これで、イード休み明けに、日本からジョソールへ銀行送金ができるようになった。午前11時半、グルシャンにあるJICA事務所をでた。

車でジョソールまで帰る。途中、大河を渡る。フェリーと橋の2つのルートがある。フェリー乗り場で長時間待たされることが予想された。フェリーを避けて、橋を渡ることにした。ジョムナ川(ブラマプトラ)にかかるジョムナ大橋、パドマ川(ガンジス)にかかるラロンシャ橋を渡った。ダッカからジョソールまで、陸路でいけるようになったのは、この2、3年のことだ。タンガイルで昼食をとり、クシティアでチャを飲んだ。あわせて1時間の休憩をとって、ジョソールに着いたのは午後8時前だった。

車の中で、JICAバングラデシュ事務所の菅原さん、地方自治局のショヒクル氏と、携帯電話で連絡をとった。プロジェクト開始を関係者に知らせる式典(Launching Ceremony)は地方自治局の次官、日本大使館の参事、JICA事務所の所長もしくは次長が出席し、126日に県庁の大会議室で開かれることになった。携帯電話の普及が、車の中での交信を可能にし、重要なことが決まる。バングラデシュでも、通信革命が、確実に進んでいることを経験した。

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「さびしい」という言葉が胸の底からわいてでた

18日、プロジェクト・ステアリング・コミティ(運営委員会)の日である。午後2時半、KK-Rakanはショヒクル・イスラム氏との打ち合わせを終えた。地方自治局の次官室の前に会議室がある。廊下を移動していたとき、反対側から一団の人々がやってきた。先頭の人物の顔は暗くてよく見えない。ひときわ背が高いので、地方自治局次官のアブル・カセム氏に間違いない。カセム氏は、地方自治局次官から計画省計画委員へ異動の辞令を受け、8日に移るようになっていた。カセム氏は、右側の部屋にはいった。他の人たちは外で待っている。2年足らず、部下として働いた職員の部屋を順番に回り、別れの挨拶をしているのだ。カセム氏は、その部屋をでると、こちらに向かってきた。私が目に入った。「カワハラ」と呼ぶ声を聞いた。その瞬間、私は両腕を広げてカセム氏を抱いていた。無意識のうちに、”I am sad. I am very regretted.” (悲しい。たいへん残念だ)という言葉を口にしていた。それが、英語として正しいかどうか知らない。プロジェクトが始まるときに、友人であった次官が去っていく。その悲しみが、突然の言葉となってわきだした。カセム氏は、私の腕をほどくと、「新しい職場を訪ねてくるように」と言った。足早に次の部屋に向かった。あとを追う人々の中に、私に、やさしい笑顔をむけるショヒクル氏がいた。そのやさしさが何を意味しているのか、私にはわからない。

運営委員会は、アブル・カセム氏に替わった新任次官ジャハルル・イスラム氏が司会をした。それが、新任次官の初仕事になった。ショヒクル氏が、プロジェクトの概要を説明し、2006年の活動計画を提案した。その中で、近くジョソールでプロジェクト開始式をおこなうと言い、ジャハルル次官に出席を求めた。次官は「国家公務員になって最初に地方にでたのがジョソールだ」と言って、「ぜひ出席したい」と答えた。

8_jan20061 新任次官ジャハルル氏(左);運営委員会にて

運営委員会には、ジョソールから6人が出席することになっていた。ワゼド知事、DPHE所長は、前日ダッカに来ていて出席できた。ところが、当日の飛行機を使った4人は、会議に間に合わなかった。深い霧のためにGMG機が2時間半遅れた。ダッカ空港に着いたあとは、道路が大渋滞で、会議の時間を車の中で過ごしたのである。4人のうち2人は、その日の最終便でジョソールに帰った。飛行機で往復し、ダッカの渋滞を経験しただけだった。あとの2人は、ダッカの親族宅に泊まってから、ジョソールに戻った。

 運営委員会で、今年の活動計画が承認され、プロジェクトは一歩を踏み出した。思いもかけなかった波乱の幕開けだった。

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次官に突然、異動の発令。一方、懸案が一気に解決

15日午前9時すぎ、プロジェクト・ディレクターのショヒクル・イスラム氏が、AANジョソール事務所に着いた。いすに腰をおろし、放った第一声は、ショッキングなものだった。

「昨日、次官の異動が発令された。計画省の計画委員になる」

地方自治局のアブル・カセム次官が、突然、代わることになった。親しくしてきたカセム次官の下で、プロジェクトを開始することに安心感があった。次官は、プロジェクト・ステアリング・コミティの議長をつとめる。そのカセム氏が去る。後任は、わかっていない。8日の第1回ステアリング・コミティ会議は、だれが司会するのか。KK-Rakanは、しばらく言葉がでなかった。重たい沈黙がつづいた。

 10時半、助手席に直樹とラジュ、後ろにショヒクル氏とKK-Rakanが乗って、ナラヤン運転のプラドはルプアナンをでた。懸案事項のプリントを、ショヒクル氏に渡した。車中で相談しながら、プロジェクト関係機関をまわった。

 シャシャ郡長と会談したとき、ショヒクル氏は、郡議会議長の公邸をプロジェクト事務所に使うことを提案した。郡議会議長公邸は、20年ほど前に全国でつくられた。いま郡議会議長は、ユニオン議長の持ち回りになっている。そのため、公邸は使われていないことが多い。見に行くと、ゲストハウスとして使うために内装工事中だった。工事が終われば、月30004000タカでプロジェクト事務所として貸してもよいとのこと。ここが第1候補になった。

 チョーガチャ郡では、郡DPHEの部屋をプロジェクトの事務所として使うことにした。政府予算で2階を増築し、プロジェクトに貸すことを検討するという。

 ジョソール県庁で、ワゼド知事に会った。知事は、プロジェクト用に別の部屋を用意してくれていた。県庁の西北の角にある、静かな部屋だった。攻撃のおそれのある裁判所からもっとも遠い。この部屋をプロジェクト本部として使うことにした。

5_jan20061 県知事室での会議

ジョソールDPHEでは、事務所に予定している部屋の改装工事がほぼ終わっていた。技術系の専門家とバングラデシュ人スタッフが使う。イード明けには、入ることができそうである。

 ショヒクル氏に、スタッフ雇用の新聞広告案を示した。ショヒクル氏から、いろんな人物から(知人を雇ってくれといった)プレッシャーがかかってくるのを防ぐために、プロジェクトの名称や住所や電話番号はださないこと。連絡先は、ポストボックス番号だけにすることなど、具体的な方法を教えてもらった。8日にショヒクル氏に最終案を見せて、了承を得たあとで新聞に掲載し、1月後半に面接をおこない、21日付けで雇用する。

 JICAの精算・契約の手続きのために、今期の活動は3月半ばで終わり、来期は4月半ばにスタートとなる。したがって、スタッフは3月半ばまでが試用期間で、約1カ月雇用を中断したあと、4月半ばから再雇用となる。それが、JICAの規則であることをショヒクル氏に説明した。

 中央政府の官僚(ショヒクル氏は、日本だと、省の部次長クラスだろうか)が訪問したことで、事務所確保など、難問が一気に解決した。

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あの寂しさはどこに?

14日にゆっくりできるというのは、とんでもない思いちがいだった。この日が仕事始めのJICA事務所から、相次いで電話がかかってきた。ダッカの銀行に口座を開設する件で、アリさんから間藤に電話がかかってきた。私は、運営委員会開催のことで、菅原さんから別の電話を受ける。2つの電話の内容が混線し、菅原さんがアリさんの電話にでた。そこへ、プロジェクト・ディレクターのショヒクル氏が麻子の携帯に連絡をいれてきた。

AANダッカ事務所長のサチさんも電話をしてくる。松村と間藤が、JICA事務所で銀行の小切手帳発行のサインをするために、ダッカに飛ぶことに決まる。ショヒクル氏が10時半すぎ、ジョソール空港に着いたあと、AANの事務所にたち寄ることになる。ショヒクル氏が、ダッカから乗ってきた飛行機で、松村、間藤はダッカに飛ぶ。KK-Rakanは午前1020分、リトゥン運転のプラドで、松村と間藤を空港に送った。2人が、手荷物検査を通過し、待合室のいすに座る。それを見届けて、KK-Rakanは空港の建物の外にでた。ショヒクル次長の乗ったGMG機が滑走路にすべりおりるのが見えた。

前夜、この空港で感じた寂しさは、もうどこにもなかった。ばたばたと慌しく、正月明けの仕事が始まると、あの寂しさはどこかへ吹っ飛んでしまった。

直樹と間藤は、JICA事務所で、銀行のチェックブック受け取りのサインをし、最終便でジョソールに戻ってきた。間藤にとって、疲れをとるのでなく、疲れの増す日になった。

KK-Rakanは、大使館から依頼された原稿を書いた。後日、外務省のODA広報メルマガに「住民主体の持続的な砒素対策をめざして」の題で掲載された。

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大晦日のにぎわいのあとの寂しさ

 13日午後75分、ジョソール空港の滑走路にGMG機がすべりおりた。AANダッカ事務所長のサチさん、応用地質研究会の末永さん、雁沢さんは、それに乗ってダッカに帰る。KK-Rakanは、3人が手荷物検査を通過し、待合室のいすに座るのを見届けて、建物の外にでた。ひんやりした空気を吸った瞬間、寂しさにおそわれた。

 子どものころ、正月三が日が終わるとき、まつりばやしが遠ざかるような寂しさをおぼえた。ジョソール空港で感じたのは、正月の晴れやかなにぎわいが去るのを惜しむ気持ちとはちがう。大きなものの前に、小さなものが残されたときに感じるたじろぎ、といえばよいのか。

 ショロジットの運転する車が、ルプアナンの門をくぐった。玄関前に、白線を引いたコートがある。照明の中で、4人がバトミントンの試合をしていた。ミジュ、アジョム、宮崎大学工学部4年生の吉川君、垰(たお)君である。学生2人は明日、横田先生、留学生のシャミムとともに、特急バスに乗ってベナポールの国境を超える。インドのコルカタで、AANの上野登代表、宮崎大学医学部の黒川基樹先生と合流する。インドのウットラプラデシュ州で、最近、砒素汚染地が見つかった。調査に訪れるのである。横田先生一行が出発すれば、ルプアナンに残る日本人はJAMP4人だけになる。

地方自治の未成熟なバングラデシュで、住民の主体性を育て、地方行政を強め、持続的な砒素対策の仕組みをつくる。そんな壮大な構想に少数の者でいどむ。空港の外で感じたのは、大きな夢とそれに向かう現実のすきまに吹き込んだ寒風かもしれない。心もとなさを支えてくれるのが、バングラデシュ人のスタッフである。これは、日本人がやる事業ではない。バングラデシュ人が自ら進めるのを、後ろで支えるのが日本人なのだ。

 夜8時すぎ、対馬さんらを空港に送ったあと、一階南の部屋(バングラデシュ人スタッフの住居)で夕食をとった。間藤が、皿に盛られたご飯に、ニワトリと野菜のカレーをついで、少し手をつけてから「食べるのをやめようかなー」と言った。胃がカレーを拒んだのだ。3_jan20061                  

 1227日にダッカ到着後、休みをとらず、総務と会計を一手に引き受けてきた。疲れが消化器にでたようだ。これまでに、応用地質研究会所属の分析技術者として、バングラデシュを訪れていた。長期間滞在して働くのは初めてのことだ。英文の各種フォーマットづくり、契約書づくり、資機材購入、会計帳簿づけ、どれもミスの許されない仕事である。KK-Rakanにつづく2人目のダウンである。正月休みなしで働いたのだから、4日はゆっくりしてもらおう。

                      写真:トマトこと間藤調整員

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北海道風の雑煮を食べて仕事を始めた

バングラデシュにキリスト暦の新年休暇はない。元日の朝、函館の高校で理科教師をしている雁沢さんが、

北海道
風の雑煮をつくった。餅で正月を味わったあと、KK-Rakan、直樹、ラジュはジョソール県庁に行った。地方行政担当の知事補佐DDLGDeputy Director, Local Government)に会って、知事室に行った。知事の机を人が取り囲んでいる。右脇の会議テーブルで、教師採用の面接試験がおこなわれている。ソファーで待っていると、小柄なワゼド知事が、笑顔で寄ってきた。用件は、3つあった。

 県庁内にプロジェクトの事務所を開く。準備してもらった部屋は、県庁内にある裁判所の真上だ。イスラム原理主義のJMBが、イスラム法に反する西欧型裁判制度を批判し、自爆テロの対象にあげている。「危険性が去ってから使うことにしたい」と言うと、ワゼド知事は「ジョソールではJMBの力は弱い。県庁入口で厳重に身体チェックをしているので心配はない。すぐにでも事務所を開いてくれ」と応えた。

 プロジェクト・ディレクターのショヒクル・イスラム氏が、14日、別件でジョソール県の南のシャトキラ県を視察する。5日に、ジョソール県のプロジェクト関係機関を回る。「知事とのミーティングをいれたい」と言うと、知事は快く承諾した。

プロジェクトの第1回運営委員会が、18日午後3時から、地方自治局の会議室で開かれることに決まった。運営委員である知事の参加を求めた。「知事が県を離れるときは内閣府の承認がいる。地方自治局の次官から内閣府に頼んでもらう」と答えた。

LGDの次官とはアブル・カセム氏のことか」ときいた。ワゼド知事は「カセム氏がチッタゴン県知事のとき、その下で働いた。サイクロンによる激しい被害のでたあとで、複数の関係機関を調整し、復興活動にあたった」と、当時を振り返った。

KK-Rakanはアブル・カセム氏と親しくしている。元教育省次官だったカセム氏の兄の依頼に応えて、故郷であるコミュラ県ゴッライ村に、AANがポンド・サンド・フィルターを建設した。当時、カセム氏は、地方自治局の計画・監察・評価部の部長をしていた。KK-Rakanは、JICAから地方自治局水供給部に派遣され、砒素対策アドバイザーをしていた。カセム氏の部屋をしばしば訪ねた。カセム氏の兄をAANに紹介したのは、山形ダッカ友好病院のエクラスル・ラーマン院長である。海外でも、信頼を絆にしながら、1人また1人と、人間関係が広がっていく。

プロジェクトは、4カ所に予定している事務所を開き、約60人のスタッフを雇用して、本格的な活動を始める。それまでの期間に準備を進めることが必要だ。11日から20日まで、準備スタッフ9人を雇用した。シャミム・ウッディン(総括、化学分析)、トルン(総務)、ラジュ(渉外)、モノアール(会計)、シュモン(現地調査)、トゥフィン(調達)、ナラヤン(運転手)、リトゥン(運転手)、カムルジャマン(調査補佐)。9人は、前のプロジェクトでスタッフとして働いた。日本人専門家4人(KK-Rakan、麻子、間藤、直樹)と、この9人で、最初のミーティングを開いた。

1_jan20061 スタッフミーティング

 スタッフがつくったレターヘッドに「JICA / AANプロジェクト」と書いてあった。前のプロジェクトは、JICAの開発パートナー事業というスキームで実施した。日本のNGOであるAANが、直接砒素対策をおこなった。「JICA / AANプロジェクト」でよかった。今回のプロジェクトは、JICAPROTECO(提案型技術協力)というスキームでおこなわれる。バングラデシュ政府が、持続性のある砒素対策を実施するにあたり、JICAに協力を求めた。JICAは案件を公示し、AANが提出したプロポーザルを採択した。AANが専門家を派遣し、バングラデシュ政府機関を技術的に応援することになった。「今度のプロジェクトでは、政府機関が主要なアクターになるように、われわれは後ろからプッシュするのが役割だ」と説明した。レターヘッドを「LGD / JICA / AANプロジェクト」に改めるように伝えた。

「君たちはこれから3年間、AANのスタッフではなくて、JICAプロジェクトのスタッフとして働くことになる」と強調した。

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去る年を惜しみ、来る年を祝う大パーティー

 1231日午前9時40分、2台の車がAANダッカ事務所を出発した。1台は、リトゥンが運転するプラド。助手席にKK-Rakan、後ろにサチさんと間藤、その後ろに資機材を積んだ。「陸路は初めてなので楽しみです。カメラで撮りまくります」。間藤はうれしそうだ。もう1台は、資機材を満載したレンタルのトラック。助手席にモノアールが乗った。交通渋滞にあうことなく、6時間後にジョソールに着いた。

 ルプアナンのプロジェクト専門家部屋に、机と書棚がはいり、パソコンがセットされていた。KK-Rakan、麻子、間藤、直樹でミーティングを開いた。ダッカでの動きとジョソールでの動きを報告し、来年当初のスケジュールを話し合った。

午後8時、ルプアナンの玄関前で、テンポの速いヒンドゥー音楽が鳴りひびいた。大晦日大パーティーの始まりである。2005AANバングラデシュのプロジェクト終了、新しい持続的砒素プロジェクト(JAMP)の開始、うっちん(ボランティア内田葉子)サヨナラ、Happy New Yearを、ぜいたくに合わせたパーティーである。

31_dec20051

袖なしシャツのミジュ、白いショールを羽根のように広げたアクリマ、茶の長スカートの下に黒の長靴をはいたモンジュの娘タンミ、えび色のマフラーを頭から首にまいたカムルジャマン。年齢に関係はないと、対馬さんや横田先生が、ところ狭しと踊ってまわる。輪ができては、ばらばらになり、てんでに踊っていた者が、また輪をつくる。楽しみの少ないイスラムの国で、禁欲を解かれたかのように、30人が音楽に酔った。胸にたぎる思いをはきだした。

31_dec20052

 踊りつかれたころ、シャミム・ウディンがディナーの開始を告げた。バドミントンコートに敷かれたござの上に大きな皿が並ぶ。ルプアナンの炊事、洗濯、掃除をとりしきる「ナズマ・カンパニー」が準備した。ニワトリや魚や野菜のカレーが配られる。

 食事が終わると、トルンがマイクをにぎった。「うっちんさん」と呼んだ。うっちんは、東京農業大学の4年生。昨年4月から9カ月間、AANバングラデシュでボランティアをした。ジョソール事務所で日本語教室を開いて、バングラデシュ人スタッフに、ひらがな、カタカナ、会話を教えた。生徒たちは「うっちん」に「さん」をつけて「うっちんさん」と親しみこめて呼ぶ。当初10人余りいた生徒は、仕事後の学習についてゆけず、12月には5人に減り、最終試験を受けたのはモンジュとアクリマの2人だった。積極的に日本語を使うアクリマは、その試験で99点をとったという。優秀な生徒である。

 スタッフからうっちんに贈りものが渡された。ルンギ(男の腰巻)のギフトに会場がわいた。「みんなに囲まれて幸せに暮らせました。またバングラに来て語り合いたいと思います」。挨拶したあと、うっちんはギターをだいた。岡村孝子の「夢をあきらめないで」を歌った。

<乾いた空に 続く坂道 後ろ姿が小さくなる やさしい言葉 探せないまま 冷えた その手を 振りつづけた いつかは 皆 旅立つ それぞれの道を歩いていく>で始まって<あなたの夢をあきらめないで 遠くにいて 信じている>で終わる。

31_dec20053  この歌詞を自分でベンガル語に訳して歌った。うっちんの気持ちにぴったりの曲なのだろう。うっちんがアジア砒素ネットワークと結んだボランティア契約は1231日で終了した。最後に残した歌声だった。

 横田、対馬、末永、雁沢、高橋、間藤、有馬、川原の8人が5階の南の部屋に集まった。ビール、焼酎、ウイスキーで去りゆく年を振り返っていると、ベンガル人スタッフが、新年をいっしょに祝おうと誘いにきた。1階の部屋にHappy New Yearのケーキが用意してあった。うっちんがナイフをいれた。新年を祝って、スプライトとコーラで乾杯した。24人でケーキを分けて食べた。

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バックパッカーが特急バスで強盗団に襲われた

 1230日は、金曜日で休みの日だ。21日にバングラデシュ入りしたあと、飛ばしてきた疲れがでた。KK-Rakanはダウンした。正午過ぎまで、ダッカのゲストハウスで寝ていた。AANダッカ事務所に顔をだし、前日につづき、ステアリング・コミティ・ミーティング(運営委員会)の資料づくりをした。ショヒクル氏が使うパワーポイント(案)ができた。電話をして、モハマドプルにある自宅を訪ねた。10月に移ったという新築アパート(日本だと「高級マンション」になる)の5階に家族4人で住んでいた。夫人も国家公務員だった。資料の修正箇所の指摘を受けて、アパートをでた。

 ラルマティアにある山形ダッカ友好病院まで近かった。薬をもらいに寄った。エクラスル・ラーマン医師が院長室にいた。こわい話をきいた。

 バックパッカーが、インドから夜行の特急バスでダッカに向かっていた。眠っていたとき、突然、乗客の一団に襲われた。ものを奪われようとして抵抗した。殴られた。逃げようとして、運転手に頼んでも、運転手は言うことをきかない。走るバスのドアを開けた。背中をナイフで刺された。時速80キロ。飛び降りた。顔中に擦り傷ができた。タンガイルのあたりだった。タンガイルで働いている青年海外協力隊員と会うことができた。山形ダッカ友好病院に運ばれた。入院中しているという。

 自爆テロを起こすJMBだけではない。盗み、強盗、治安が悪くなっている。明日、ダッカで購入したパソコンなど、資機材をジョソールに運ぶ。用心しなければ、と気を引き締めた。

 夜、ボナニの中華料理店「香港」で、谷先生、学生7人と夕食を食べた。3週間の調査を終えて帰国する。ジョソールがさびしくなる。

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住民自治を真剣に考えている行政官の系譜

 KK-Rakanと間藤は、1228日午前9時半、JICA事務所を訪ねた。銀行口座開設に必要な書類を渡した。バングラデシュに、キリスト暦の新年休暇はない。銀行の業務はつづくのに、JICAが翌29日から正月休みにはいる。送金ルートを開く手続きは中断するしかない。緊急に、資機材購入の費用がいる。この中断は痛い。間藤は困惑した。

 砒素担当のアリさんと地方行政局(LGD)に行った。JMBのテロが起きてから、警戒が厳しくなった。セクレタリアート(政府官庁街)に入るとき、ゲートパス(通過証)あるいは招請状が必要だ。アリさんがゲートパスを見せてはいった。

 このプロジェクトのディレクター(PD)は、地方行政局水供給部デプティ・セクレタリー(Deputy Secretary)のショヒクル・イスラム氏がつとめる。22日に政府機関を訪ねたとき、ショヒクル氏はインド出張で不在だった。この日が、プロジェクト開始後、最初の話し合いになった。前のプロジェクト当時から、ショヒクル氏とは何度も会ってきた。気さくな人物で、このプロジェクトに特に力をいれている。そこには、理由がある。

元地方行政局次官のボビウル・ラーマン氏は、地方自治に造詣の深い人物として知られている。ショヒクル氏は「ボビウル・ラーマンの弟子」と称する。ショヒクル氏が、UNDPのプロジェクトで5年間働いたとき、ボビウル・ラーマン氏はプロジェクト・ディレクターをしていた。ショヒクル氏は、職場で、自宅で、ボビウル・ラーマン氏から教えをうけた。話し合ったのは、住民主体の自治をどう築いていくか、ということだった。ショヒクル氏は、郡長をしていた若い日、村に泊り込みで住民参加の事業をやろうとした、という話をよくする。わたしたちが開始した「持続的砒素プロジェクト」は、住民を主体に、地方行政を巻き込んだ態勢づくりをめざしている。まさに、行政官ショヒクル氏のこころざしにぴたり重なっている。

28_dec20051 プロジェクトダイレクターのショヒクル氏

バングラデシュの政府の高官の中に、地方自治のあり方を真剣に考えている人びとの系譜がある。幸運にも、プロジェクト開始時に、その人脈につながった。

こんごの予定を相談した。イード休暇が110日から14日まで予定されている。その前の8日か9日に、第1回ステアリング・コミティ・ミーティング(運営委員会)、122日か23日にジョソールの開始式を開くことで調整することになった。プロジェクトの正式名称の“Sustainable Arsenic Mitigation under Integrated Local Government System in Jessore”を簡略にして、“Jessore Arsenic Mitigation Project”(JAMP)と呼ぶことにした。「J」は「JICA」あるいは「Japan」と言いかえができる。ショヒクル氏の熱意で、予定が狂うことなく、プロジェクトが動きだした。ジャンプだ!

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飛行機が飛ばなくなり、急遽、車でダッカへ

 

ジョソール県内の関係機関まわり2日目。シャシャ郡事務所で、郡長に挨拶したあと、いったんジョソールに戻った。そこへ、「飛行機が飛ばなくなった」という連絡がはいった。機体のやりくりができなくなったらしい。KK-Rakanは、夕方のGMG機でダッカに行く予定を変更し、リトゥン運転のプラドに乗った。

パドマ川(ガンジス)をフェリーでわたり、7時間かかって、午後8時、AANダッカ事務所に着いた。松村直樹と間藤ゆき枝が働いていた。正午着のTG機で、ダッカに到着したのだ。松村は、地方行政の組織づくり、間藤は、水質管理と調整の仕事をする。心強くなった。翌28日、松村はジョソールに飛び、間藤はKK-Rakanと、JICAと地方行政局を訪ねる。

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裁判所の真上の部屋の使用を見合わせる

1226日、ジョソール県の関係機関を挨拶してまわった。県庁の四方に、門がある。開いているのは、北西の門だけだ。武装した警備員が検問をしている。プラドに乗って入ろうとすると、バングラデシュ人スタッフ(シャミム・ウディン、トルン、ラジュ、ナラヤン)が、車を降ろされた。ボディーチェックを受けた。日本人3人(KK-Rakan、末永和幸、高橋麻子)はそのまま通過できた。検問の理由は、バングラデシュ全土で、裁判所が攻撃の対象になっているからだ。ムスリム原理主義のJMB(ジャマトゥル・ムジャヒディン・バングラデシュ)が自爆テロを起こしている。その標的のひとつが、イスラムの法に反して西欧から導入された裁判制度なのだ。

県知事は不在だった。オマル・ファルク副知事が対応した。プロジェクト本部に用意された部屋を見た。裁判所(バングラデシュでは県庁内に裁判所がある)の真上にあたる。隣に少年裁判所の事務室がある。「裁判所の上なので心配だ」と伝えると、副知事は「家賃の高い民間の部屋を借りてはどうか」と、冷たく言った。JICA事務所と相談し、「テロの危険がある間、県庁内の事務所開設は控える」ことにした。

26_dec20051ジョソール公衆衛生工学局(DPHE)に行った。地方の水供給に責任をもつ政府機関である。使っていない建物の1階を、技術者用事務所として貸してくれることになった。水供給、医療、啓発、地方行政などの日本人専門家と、バングラデシュ人スタッフが働く。広い部屋が3つある。県庁事務所を開設しないでも、やっていける。

ジョソール保健局(Civil Surgeon Office)に行った。砒素中毒患者の確認、リストづくりの話をした。アブル・バシェル所長はいっしょにやることに意欲をみせた。元シャムタ村ヘルスセンターに勤務していたナズムール医師が働いているのは心強かった。

チョーガチャ郡保健所(Health and Family Planning Office)で、サラウディン・カーン所長が大喜びで迎えてくれた。

前夜、サラウディン所長は日本人を夕食に招待した。招かれたのは、KK-Rakan、麻子のほか5人。九州大学の谷正和先生、大学院生の有馬未希、筒井康美は、12月半ばから、チョーガチャ郡マルア村で調査をおこなっている。応用地質研究会の末永和幸さんと雁沢夏子さんは、正月休みを利用してやってきた。香辛料をおさえた食べやすいカレーの料理をご馳走になった。26_dec20052

サラウディン所長は、今年10月から11月の1カ月半、日本に滞在した。AANがおこなったJICA委託「砒素汚染対策指導者養成セミナー」に参加したのだ。秋葉原、阿蘇、ナガサキといった訪問地のこと、高価な買い物のこと、食べ物のこと。日本とバングラデシュを比較して、雄弁に語った。いちばん驚いたのは、

宮崎市
AAN本部を訪ねたときだ、と言った。「たった2部屋しかない。それも、俺の部屋より小さい。本部は小さくても、AANは世界の砒素汚染をコントロールしている」。大笑いした。

26_dec20053

チョーガチャ郡保健所に、重症の砒素中毒患者が来ていた。ロケヤ・ベグム。右手のひらの半分がないのは、皮膚がんを手術したからだ。ロケヤは1973年、結婚してマルア村で暮らし始めた。家族全員の肌に黒い点々がでた。手足に、固いいぼができた。それが、砒素による色素沈着と角化症だとわかったのは、1999年にAANが調査をしたあとだ。皮膚がんを発症した夫、アルタフ・ホセインは、2年前に死んだ。同じ井戸水を飲んできた末の 弟は、昨年、肺がんで死んだ。2番目の弟は、いま、肺がんでダッカの病院に入院している。砒素のこわさを知らされ、ロケヤは、精神的にまいっている。

サラウディン所長は、ロケヤを診察して、処方箋を書いた。近くの薬店で、4種類の薬を買った。KK-Rakanが個人的に支払った。500タカを超えていた。村人には、とても払える薬代ではない。マルア村は、新しいプロジェクトの対象地域にある。砒素対策に地方行政機関の保健所が関わる。新プロジェクトの方向と重なって、早くも具体的な動きがでてきた。そこに、日本での砒素研修がかんでいることに、大きなうねりを感じる。26_dec20054

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「美しい雲」という名のアパートに住む

1223日午後5時半、GMG機がジョソール空港に着いた。KK-Rakanにとって、9カ月ぶりのジョソールである。「戻ってきた」と感じた。ダッカに着いたときとは、感動がちがった。AANバングラデシュのトルン(総務)とナラヤン(運転手)に迎えられた。ナラヤン運転の車で5分、5階建てアパート「ルプアナン」に着いた。各階に、3ベッドルーム付きのユニットが2つずつ、計10ユニットある。20013月の完成直後、アジア砒素ネットワークは2ユニット借りた。だんだん増やして、いまは全館借り切っている。

23_dec20051

1階の2ユニットは、独身のバングラデシュ人スタッフが住む。「Bachelor com(バチェラー・ドット・コム)」が、独身寮の名前である。2階は、北がラボラトリー、南がAANバングラデシュのジョソール事務所。3階は、北が新プロジェクトの事務所、南が日本人スタッフ島村雅英の部屋、4階は、北がKK-Rakan、宮崎大学工学部横田漠教授、シャミム・ウディンで使う部屋、南がサチさん(ダッカ事務所長対馬幸枝)の女性用ゲストルーム「ハッピークラブ」。5階は、北が日本人スタッフ松村直樹、南が中村純子と麻子の部屋になっている。どの部屋も、インターネットのラインをひいて、パソコンによる通信ができる。

大家は、建設業をしている。35歳の若手実業家。6歳の息子は「アナン」、10カ月の娘は「ルプ」という。「ルプアナン」で「美しい雲」の意味になる。

玄関前に、白いラインがひいてある。バドミントンのコートだ。3年前に、KK-Rakanがネットとラケットを寄付した。仕事が終わったあと、照明をあてて、運動ができるようにした。トルン、ラジュ、ミジュに誘われて、KK-Rakanは汗を流した。「9カ月ぶりに仲間のもとに復帰した」と感じた。

23_dec20052

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新プロジェクトはAANにしかできない

1222日、バングラデシュ政府の関係機関を挨拶してまわった。財務省経済協力局、地方行政省水供給部、公衆衛生工学局(DPHE)、保健局(DGHS)の4カ所である。アジア砒素ネットワークは、1996年にバングラデシュで予備調査をおこなった。1997年から3年間は、ジョソール県シャシャ郡シャムタ村で調査と対策のプロジェクト。2002年から3年間は、シャシャ郡でJICA委託のプロジェクトを実施した。政府関係者から評価されるようになった。どこも喜んで迎えてくれた。どこも協力的だった。

 プロジェクトは、ジョソール県庁に本部、公衆衛生工学局に技術者事務所、シャシャ郡とチョーガチャ郡に現地事務所、計4カ所の事務所を開く。そこで使う資機材(パソコン、事務机等)の購入を急がねばならない。挨拶回りから戻ってくると、AANダッカ事務所でサニーとモノアールが待っていた。すでに見積書を集め、業者を呼んでいた。麻子は、資機材の前払い金額と納入日を決めた。日本からの送金を急がねばならない。

 夕方、運転手のリトゥンが、バスでダッカに着いた。JICAから中古の4輪駆動車(プラド)を受けとると、その日のうちにジョソールに帰った。これで、乗り物が確保できた。

ダッカ2日間で、関係者から歓迎され、順調にすべりだした。たくましく成長したバングラデシュ人スタッフの力を実感した。KK-Rakanは「9年間の活動の成果と経験の積みあげの上で、このプロジェクトを実施する。持続的砒素プロジェクトを実践する組織は、アジア砒素ネットワーク以外にない」と確信した。

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住民主体に、地方行政を強化して、持続性めざす

1222日正午、TG機はダッカ空港に着いた。KK-Rakanと麻子は、入管と税関を30分で通過し、建物の外にでた。出迎えにきているはずのサチさん(対馬幸枝)の姿が見えない。数年前まで、入国手続きに2時間かかっていた。コンピューターがはいってスピードアップした。この日の処理の速さは、サチさんの想像を超えていた。10分後、サチさんがレンタカーで迎えに来た。アジア砒素ネットワーク(AAN)ダッカ事務所に行った。事務所は、パキスタン時代の高級住宅地ボナニにある。

サチさんは、ダッカ事務所長をしている。十人余りのバングラデシュ人スタッフを率いて、ジョソール県ケシャプール郡でプロジェクトを推進している。アジア砒素ネットワークは、これと別に、JICA委託のプロジェクトを実施することになった。タイトルは「持続的砒素対策プロジェクト」。対象エリアは、ジョソール県シャシャ郡とチョーガチャ郡(人口51万人)である。これまで、啓発、住民参加、安全な水供給、患者の経過観察・医療指導など、総合的砒素対策を実践してきた。プロジェクトが終わると、対策が継続しないという欠陥があった。行政組織の弱いバングラデシュで、砒素対策を持続させるには、住民を主体とし、地方行政を強化し、持続的なシステムをつくる必要がある。それが、新プロジェクトの目的になった。壮大なこころみである。

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  サチさん(左)

午後2時、JICAバングラデシュ事務所に行った。プロジェクト開始にあたり、準備することがあった。宮崎市のアジア砒素ネットワーク本部から、ジョソール県のプロジェクト事務所まで、資金を銀行で送るルートをつくること。本格的な活動開始前に、ダッカでプロジェクト・ステアリング・コミティ(運営委員会)を開くこと。ジョソールで砒素対策関係者を集めて開始式を開くこと。JICAからプロジェクト用車両3台を受け取って、足を確保することなど。砒素担当の菅原卓也さん、ズルフィカル・アリさんと相談した。

午後4時、菅原さんの案内で、在バングラデシュ日本大使館に行った。紀谷昌彦参事官、吉田明美一等書記官に、プロジェクト開始の挨拶をした。紀谷参事官は「他のドナーの砒素対策の手法を替えていくこと、日本の協力をスケールアップすることを念頭において進めてほしい」と言った。

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凍える日本を飛び立った

 200512月、日本列島は寒波に襲われ、凍えた。東北や北陸では、豪雪に埋もれ、家が倒壊し、村が孤立した。1220日、幸いなことに、寒さがゆるんだ。高橋麻子は、その日、雪が消えた中部国際空港滑走路から飛び立った。タイのバンコク空港にKK-Rakanが待っていた。福岡空港から30分前に着いたところだった。

 目的地は、世界最大の砒素汚染国、バングラデシュである。地下水が砒素に汚染され、チューブウエル(手押しポンプ井戸)でその水を飲んできた人が、砒素中毒にかかっている。危険な水を飲んできた人は3000万人を超える。

前年12月、JICA(国際協力機構)が委託し、アジア砒素ネットワークが実施した3年間の砒素汚染対策プロジェクトが終わった。最後の年に、KK-Rakanがプロジェクトマネージャー、麻子が現地所長をつとめた。それから1年たち、次のプロジェクトが始まったのである。

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  KK-Rakan(左)と麻子(右)

KK-Rakanは、前の晩、眠れなかった。新しいプロジェクトに参加する7人の顔が次々と浮かんだ。このメンバーでやれるのか、という不安。やりとげることで、さらに飛躍することへの期待。不安と期待が交錯し、朝をむかえた。5時半に起きて、6時半にタクシーに乗った。宮崎から、福岡を経て、バンコクに1泊し、バングラデシュの首都ダッカに向かった。

バンコクのレストランで、麻子は、テーブルの上にパソコンを置いた。バングラデシュの関係機関に配る英文資料を作った。困難なプロジェクトにいどむ緊張と、やってみせるという開き直りがあった。向きあって座ったKK-Rakanは「麻子は肝がすわっている。プロジェクトの牽引車になる」と思った。

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